三千人塚
府中市の矢崎町2町目
1333年の分倍河原合戦の戦士者を埋葬した場所として
知られているが・・
昭和30年に発掘調査をして
3000人ではなく、4個だけ骨壷が発見されたとのこと。
付近に牢屋のようなものがあったとされることから、
被死刑人を埋めた塚ではないかという。
一説には、
塚にあった記録を読み間違えたことにより
合戦の戦死者の3000人塚と言い伝えられたという話もあるが
真偽はわからない。
はじめての町にいくには夜になってから到着するのがいい。 灯に照らされた部分だけしか見られないのだからそれはちょっと仮面をつけて入っていくような気分で、事物を穴からしか眺めないことになるが、闇が凝縮してくれたものに眼は集中してそそがれる。翌朝になって日光が無慈悲、過酷にどんな陳腐、凡庸、貧困、悲惨をさらけだしてくれても、白昼そのままである状態に入っていったときよりは、すくなくとも前夜の記憶との一変ぶりにおどろいたり、うんざりしたり、ときにはふきだしたくなったりするものである。 白昼に到着しても夜になって到着しても、遅かれ早かれ、倦怠はくるのだから、ひとかけらでもおどろきのあるほうをとりたい。 by 開高健「夏の闇」
2014年11月18日火曜日
2014年11月16日日曜日
浅野長政の隠棲の跡(府中市白糸台)
浅野長政 隠棲の跡
白糸台5町目にある。
豊臣秀吉の義弟である浅野長政は、秀吉とともに織田信長につかえた。
山梨の甲州21万石の領主にもなった。
しかし
石田三成の謀略などにより
家督を息子の幸長に譲り
家臣の屋敷に隠居した。
その屋敷跡が府中市白糸台5丁目あたり。
白糸台5町目にある。
豊臣秀吉の義弟である浅野長政は、秀吉とともに織田信長につかえた。
山梨の甲州21万石の領主にもなった。
しかし
石田三成の謀略などにより
家督を息子の幸長に譲り
家臣の屋敷に隠居した。
その屋敷跡が府中市白糸台5丁目あたり。
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